「和尚様はどうなされたのです。」

 いぶかる円心に、円修は重い口を開いた。

「実は・・・和尚様はご病気にかかられ、去年亡くなられた。」

「・・・」

 円心は動揺を隠せなかった。急いで本堂へ行くと、そこには天寿和尚の位牌が置かれていた。お堂には線香の匂いがたちこめている。

「和尚様!」

 円心はそう言ったきり、位牌の前にひれ伏してしまった。円心はあたりかまわず声をあげて泣いた。涙が後から後から流れ落ちた。

 

『私は何という愚かな弟子だ。』

 何度も床をこぶしで叩いた。円心は、とうとう許しを得ることも破門されることもなくなった自分に、どうしようもない怒りをぶつけた。

『できれば・・・お許しいただけるのなら、この二年間の出来事を和尚様にご報告したかった。』

 円心には、何ともやりきれないせつなさが心に深く残った。そして円心の心に居座ったその想いは、長い年月をかけて美化されて、死ぬまで消えることはなかった。痛切な想いは消えることなく続いていく。来世ではそれが別の形になって現れるとは、このとき円心は思いもよらなかった。

 寺の門の前まで来たときである。中へ入るのをためらっていた円心の姿を最初に見つけたのは、兄弟子の円修だった。円修は庭先の落ち葉を竹ぼうきで掃いていた。この二歳年上の兄弟子は、円心を含め五人いる弟子の中で一番の年長者だった。円修は、よく弟子たちを取りまとめる実の兄のような存在だった。若い弟子たちにとって、天寿和尚の教育は時には厳しいものであった。円修はそんなとき、弟弟子たちを陰ながら支えていた。

「円心、よく帰ってきたな。」

 円修はそう言って、円心の頭から足の先までまじまじと見た。円心には、それとわかるたくましい成長の跡がうかがえる。

「申し訳ございません。」

 円心はそう言って深々と頭を下げた。

「和尚様は、さぞお怒りのことでしょう。」

 竹ぼうきを持つ顔が一瞬くもったが、円修はそれには答えなかった。

「まぁ、とにかく中へ入れ。疲れもたまっているだろう。」

 そう言って、円心の肩を押して寺の中へ入れた。円心の帰りを知った他の弟子たちも、一様に再会を喜んでくれた。円心はなつかしいやらはずかしいやらで、それぞれに成長している弟弟子たちと話を交わした。だが天寿和尚の姿が見えない。

 円心が信濃の國に入ったころは、秋も深まりを見せていた。
 紅や黄の紅葉は山一面を彩っている。円心が寺を飛び出して二年の年月が経っていた。十禅寺の周りの山々もいつもと変わらぬ秋を迎えていた。円心は落ち葉のしき積もる細道を一歩一歩踏みしめている。 円心はこの二年間、寺のことを忘れたわけではなかった。天寿和尚からかけていただいた恩の深さを思うと、何ともやりきれない気持ちにさせられることも度々だった。

『和尚様は私のような不徳者をお許しにはならないだろう。いや、許してくださったとしても今さらのこのこと、帰って合わせる顔はない。』

 そういう思いを抱きつつも、帰郷の途に着こうとしている。書き置きは、残してきてはいた。自分がなぜ寺を出るのか、仏の道を捨てるわけではないなどということをしたためていた。しかし円心は、言い訳をするつもりはなかった。破門を覚悟だった。いっそ破門してもらうことで、自分に対するけじめをつけようとも考えていた。円心は、どのような沙汰も甘んじて受けるつもりだった。

「実は・・・」

 円心は自分が見たものを言おうとして、言葉が浮かばなかった。思いついたように腰に巻き付けていた巾着をほどき、中から筆と和紙を取り出すと一筆したためた。


いさりびの

 あかきみたまに

 ひとのよの

 ともというべの

 あそのいでたち


 円心は黙ってそれを無雲に差し出した。無雲はその歌を見ながら瞑目した後、何度もうなずいた。

 

「円心殿。わしらの旅はようやく終わりを迎えたようじゃの。」

「・・・」

「もう、わしがお主に授けるものはない。あとはお主次第ということじゃの。はっ、はっ、はっ。」

「私はこれからどうすればいいのです。」

「わしは阿蘇の修験道へ、ちと立ち寄っていく。お主は一度、信濃の國へ戻られるがよかろう。」

「・・・」

「これが今生の別れとなるやも知れぬが、忘れてはなるまいぞ、円心殿。お主とわしの旅はどこまでも続いていくのじゃよ。来世でも次の来世でも。はっ、はっ、はっ。」

 立ちつくしている円心を後にして、無雲は阿蘇谷へと続く道なき道を歩きだした。

「さらばじゃ、円心殿。」

 円心は無雲が見えなくなるまで、いつまでも見送っていた。


円心は、阿蘇の外輪山の一番高い峰へ向かっていた。あと一歩で崖の下へ落ちるというところまで来た時である。眼下には、阿蘇谷に横たわる雲海が開けていた。見渡す限り広がる雲海の前に、まるで自分だけが地上の住人であるように感じられた。
 その時である。

「これは・・・」

 それは円心が今まで一度として見たことがない不思議な光景だった。突如としていくつもの七色の火の玉が、地の底からわいてきたかと思うと、上空へ舞い上がる。やがて光は幾重にも重なり、まばゆいばかりの巨大な丸い玉へと集まっていく。そしてその山ほどもあろうかと思われる巨大な玉は、ゆっくりゆっくり空高く上っていく。あたりはゴーッという滝のような音が聞こえてくる。

円心は崖の上からその光景を見ているのだが、「もう一人の自分」がその巨大な玉の中にいるのがわかる。円心はいつしか「もう一人の自分」になって火の玉の外の世界を見ている。地上がどんどん離れているのが見える。旅立ち、別れ、哀しみ、希望・・・いくつかの気持ちが心に浮かんでいる。

 円心は、朝の光が差し込んで幻想の世界が闇と共に消えるまで、いつまでも見とれていた。

「おーい。」

 声に気づいて後ろを振り返ると、無雲がこちらへ向かっていた。

「急にいなくなってどうしたんじゃ。」

 無雲の声がハアハアいっている。

「えんしん・・・えんしん・・・」

「?」

 心地よい眠りの世界から誰かが連れ戻す声がした。円心は、夢心地のままうす目を開けた。

「えんしん・・・えんしん・・・」

「えっ?!」

 確かに自分を呼ぶ声に気づいて、はっと目が覚めた。急いで半身を起こして、辺りを見回してみる。傍らには無雲が、くの字になって寝ている。

「無雲殿。」

 呼んでみたが起きない。無雲は寝息を立てて寝ている。空耳だろうか。いや違う。この声はどこかで聞いたことがある。円心は声の主を思い出そうと記憶をたどるが出てこない。あれほど騒がしかった虫たちも、どこへ行ったのか静まり返っている。いつしか月は西の空へかたむいていた。もう一度横になって目を閉じたその時である。

「えんしんよ。」

「あっ。」

 円心はそう叫んでいたが声にはならなかった。それは雪深い日、木彫りの大黒天を掘り出した時に、心の中に現れた声だった。あの時ははっきりと声を聞き取ったわけではなかった。しかし円心には、その声の主が大黒天であるとわかった。
 円心は気づくと立ち上がって歩き出していた。自分でもどこへ、なぜ歩いていくのかわからない。足が勝手に前へ進んでいる。声の主が歩けと言っている気がした。どこまでも歩いていく。空はいつの間にか朝の気配を含みだした。円心の足元の明るさは、月の光でない、朝の訪れによるものだった。

翌年。季節はすっかり夏を迎えていた。二人のあてどもない道程は、肥後の國の阿蘇路へと続いていた。雄大な阿蘇の峰々を歩いていく円心には、旅の目的すらかすんでいくようであった。

「今日はこの辺で野宿するか。」

 そこには、阿蘇の外輪山へと続く、見渡すかぎりの草原の山々があった。あたりには民家の影もない。木立すらない。火をおこす木もなかったが、幸い月夜が明るかった。日中は寝静まっていた虫たちも、草むらのそこかしこで一斉に鳴きだした。

「まるで月夜からの使者でもやって来そうじゃわい。」

 無雲はそう言うと、大きな石の上にどっかりと腰を下ろし、虫たちに混じって笛を奏で始めた。無雲の笛は虫たちとも仲がいいらしい。互いの織りなす音は、おとぎの国の話でもしているようだった。円心は、草の上にごろんと仰向けに寝ころんで腕枕をした。空には満月が煌々と照っている。

『今宵で旅を始めて何日たっただろうか。』

 それは寺で過ごした年月に比べればわずかなのかもしれないが、円心にとっては長い長い年月に感じられた。今まで寺の中の生活しか知らなかった円心には、見るもの聞くものがすべて新鮮だった。

「確かに無雲殿の言うとおりだ。月の使者が降りてくるのが見えますぞ。」

 円心はそう言って無雲の方を見たが、無雲は相変わらず虫たちとの会話に忙しい。いつしか円心は眠りに誘われた。天の羽衣を着た月の使者の夢を見つつ・・・

「円心殿、察しのとおりじゃ。」

 無雲はいつになく多弁になっていた。

「わしら二人は双子の兄弟じゃ。はるか昔は一つの魂じゃった。それが二つに分化した。つまり和魂(にぎたま)のわしと荒魂(あらたま)の兄者の二つにだ。」

 円心は聞きながら不動明王を思い浮かべていた。不動明王は大日如来の化身と言われている。その憤怒の形相は、穏やかな大日如来とは似ても似つかぬものである。陰と陽の存在は世の常なのかも知れない。

「兄者は真言密教の門をたたいたが、そのあまりにも激しい気性と底知れぬ能力が故、高野山を追われる身となってしもうた。じゃが國を想い民を想う気持ちは人一倍に強い。それがため、因縁を我が身にかぶってまでもこの度のことを成したというわけじゃよ。」

「兄者とはいつか決着の時が来るような気がしてならぬのじゃ。」

 円心は、どんよりと濁った雲の向こうを見やる無雲のまなこの中に、深い宇宙を見た。

 

 

「ふっ、ふっ、ふっ。相変わらず甘いぞ、無雲。戦乱を終わらせて何が悪い。お主は今何を見てきた。いくさに疲れきった民の安堵を見て取れなかったのか。南朝方には気の毒だがいくさに勝ち負けはつきものよ。」

「南朝方が譲位されて得をするのは誰とお思いか。結局の所将軍家に踊らされているだけではないのか、兄者。」

「その通りだ。でもそれのどこが悪い。もう天子が國を治める時代は終わった。これからは力あるものが制する時代よ。ふっ、ふっ、ふっ。」

 雨あしはいっそう速くなってきた。

「御免!」

 黒衣の行者はそう言い残して足早に二人のもとを去っていった。円心は無雲の差し出した手につかまり、よろよろと立ち上がった。

 

『間違いない。』

そう思った途端、円心は手を合わせたままの状態で動けなくなってしまった。向こうはまだこちらに気づいていない。だが道の真ん中に立ちはだかっていては、気づかれるのも時間の問題であった。無雲はというと、近づいてくる黒い固まりを瞬きもせずにじっと見ている。

「あっ。」

 黒衣の行者が二人にあと何歩という所まで近づいた時であった。突然足が止まり、前傾を止めたその時、顔がはっきり見えた。そして気づいたときには円心は、後ろへどすんと尻もちをついてしまった。円心は、黒衣の行者の放つ〃気〃に、もの凄い風圧を感じた。あまりの醜態ぶりだったが立てない。足に力が入らないのである。円心は二人を見上げる格好になってしまった。黒衣の行者は円心には気にも止めず、無雲の方をまっすぐ見ている。無雲は左手に杖を持ち、これまた石のように固まっている。

しばらくの沈黙が流れた。あたりのけむる雨は、いつしか雨粒の感覚を持ち出した。

『似ている・・・』

 自分の前に対峙している二人を見てそう思った。あの晩は顔などよく見れなかったのだが、今こうして黒衣の行者と無雲を見比べてみると瓜二つである。ただ黒衣に白装束という違いがいっそう浮き立っていた。
 まず、無雲が口を開いた。

「やはり兄者のせいであったか。」

 (カシーン!)

 無雲は六角棒の杖を固い地面にまっすぐ叩きつけた。

「法力で世の中は変わるものではない。いやたとえ変わったとしても因果応報の業(カルマ)を断ち切れるものではない。いくさをこういう形で終わらせても新たな火種は出てきましょうぞ。」